2010年6月30日水曜日

友人のパトリック ウォール

6月30日


ハシエンダハイツの自宅に着いてから5日目、友人のパトリック ウォールが遊びに来た。パトリックは家族ぐるみの友人で、私がアメリカに留学中、引越しとか家の修理とか困った事があると助けてもらうので、妻は「困った時のパト頼み」とよく言っていた。


パトリックに初めて会ったのは1985年である。当時のパトリックは西ハリウッドに住み、グリーンピースの活動家として知られていた。グリーンピースは鯨とイルカの捕獲に反対する環境保護団体で、日本の捕鯨に目を光らせていた。








パトリックは1980年に日本を訪問したことがある。当時、アメリカ国内では、伊豆半島にある漁師町でイルカが大量に殺されているといううわさが流れ、グリーンピースは調査のためにパトリックを日本へ送り込んだのだった。


パトリックが伊豆半島の漁師町へ着くと、うわさ通り300頭以上のイルカが漁港の入り江に閉じ込められていた。パトリックはすぐにイルカを逃がす決心をした。


12月24日のクリスマスイブの夜、彼はアメリカ人の友人を連れて戻り、用意したゴムボートで漁港に入ると、闇の中を入り江まで漕いでいった。彼は、入り江の網に着くとボートをブイにつなぎ、海に飛び込んだ。ウェットスーツを着ていたが12月の海は身を切るように冷たく、グローブをつけていない手から体温が奪われた。


彼は入り江の端まで泳ぐと網を金具からはずそうとした。冷えきった手は思うように動かないが、何度もやってみると、網がようやく外れたので、ゴムボートにもどり、網をボートに引っぱり上げた。入り江の網は半分くらいまで開いたが、しかし、イルカは外に出ようとしない。彼らは闇の中で何が起きているのかよく分からないようだった。


パトリックは、イルカを誘導しようとまた海に飛び込んだ。すると、二頭のイルカが両脇にすり寄ってきて、一緒に泳ぎ始めた。イルカはパトリックを少しも怖がらなかった。「外に出るんだ」と叫ぶと、数頭のイルカが周りに集まり、パトリックは出口に向かって泳いでいった。すると、イルカの群れが外に向って泳ぎ始めたのだった。彼は「ここから逃げろ。自由になるんだ」と叫んだが、一瞬「日本のイルカは英語が分かるのかしら」と苦笑いした。


その夜、イルカ200頭以上が太平洋に逃げ出した。しかし、病気で弱ったイルカや、子連れの母イルカは逃げることができず、次の日に100頭くらいのイルカが殺されて食用として売られたそうである。


グリーンピースの幹部たちは二日後、サンフランシスコで記者会見を開き、「パトリック ウォールが日本のイルカを解放した」と発表した。このニュースは世界中に報道されたので、彼はヒーローとなり、日本のマスコミも後追いで報道することになった。パトリックは日本の警察に自首して留置場で2週間すごすことになったが、その体験もパトリックの良き思い出になった。


現在のパトリックは昔の華やかな生活から離れ、園芸の仕事をする人のいいおじさんである。しかし、環境を守る気持ちと正義感の強さは昔と変わらない。古き良き友人の一人である。