2012年10月4日木曜日

沼津の想い出


1982年、インドネシアの仕事は終えた私は、富士通の沼津工場(静岡県)に派遣された。翻訳出版社に勤務していた私の仕事は、ジャングルの建設工事現場のアドミニストレーターから、コンピューターの技術翻訳に変わった。沼津工場は、駿河湾を見渡す愛鷹山のふもとに位置し、茶畑に囲まれた美しい場所にある。



富士通沼津工場の玄関



インドネシアの2年間の原始的な生活はとても辛かった。私は娯楽のない辺ぴな土地でマラリヤに二回もかかっていた。その反動からだろうか、沼津で遊び三昧の生活ーーヨット、パーティ、ラケットボール、海外旅行ーーを始めるようになった。今考えてみると、インドネシアで失った青春時代を取り戻したい気持ちで一杯だった。


左は大型コンピューターを作ったハード棟、今はソフトを作っている。




最初に夢中になったのがヨットである。駿河湾は波が穏やかなのでディンギー(小型のヨット)向きの海だった。ヤマハの中古のヨットを買った私は、週末はいつもセイリングをするようになり、富士通社内でヨット仲間を集めていった。風のある日は、私はワクワクしていて、職場の五階から見える駿河湾はキラキラと輝いていた。



駿河湾を見渡すソフト棟。5階に職場があった。


仲間が増えるとヨットも増えた。ヨットクラブの所有艇はシカーラ、シーホッパー、ホビーキャット14。私は他に、26フィートのクルーザーを友人と共同所有していた。これだけのヨットがあれば駿河湾に連合艦隊を作れると喜んでいた。



シカーラ(ロスに出発する前日)


シカーラ


シーホッパー



ホビーキャット14



ヤマハ26フィートクルーザー


東京からヨット仲間や女の子が遊びに来ると、週末のセイリングはもっと華やかなものになった。私は社内の若者を呼んでパーティ(有料)を開き、その金の一部でヨットの部品を買ったり、ヨットのメンバーを増やしたりした。会社が借りた私のマンションは「服部サロン」と呼ばれて、若い男女が集まる憩いの場となったのだった。







沼津工場には他の楽しみがあった。日本には珍しいラケットボールのコートが二面あったのである。私はこの室内テニスが大好きで、週に一度はライバルと戦い、負けた方が弥次喜多(沼津市内にあった有名な魚料理店)で相手に夕食をおごるルールになっていた。お互いに相手をからかいながらゲームをするのは楽しかった。




台北市内にて(左が筆者)


シンガポール



シンガポール市内


その頃の私は東南アジアをよく旅行した。特に、太平洋戦争の歴史に興味があったので、フィリピンの激戦地コレヒドール島(マッカーサーのアメリカ軍が日本軍に降伏した島)を何度か訪ねた。島に行くと日本軍とアメリカ軍の戦いを肌で感じることができて、私はいつか、マッカーサーと日本軍の戦いのストーリーを書きたいと夢見ていた。




コレヒドール島


コレヒドール島の砲台


高射砲


対戦車砲


最後の激戦地マリンタトンネル


トンネル内のアメリカ兵



トンネル内のマッカーサー。降伏前に魚雷艇で島を脱出した。


日本軍に降伏したマリンタトンネルのアメリカ守備隊
http://en.wikipedia.org/wiki/Corregidor_Islandより


やがて、遊びにも飽きる時がやってきた。自分の人世はもっと他の所にあると感じ始めたのである。ヨットは楽しいが、将来を考えると、このまま翻訳の仕事を続けるつもりは無かった。しかし、他にどんな道があるのか?

その頃、私は以前から興味があった心理学を学びたいと考えていた。しかも、心理学を日本語ではなく、英語で学ぼうと思っていた。英語の心理学は日本語より良いと思っていたからである。こうして私の心はアメリカに向いていった。


1985年5月、私は退職を決心すると、沼津を離れ、ロスアンゼルスに出発した。カリフォルニア州立大学ロスアンゼルス校心理学部に入学したのは次の年である。

私の人生は沼津から大きく変わった。私はここで妻と出会い、アメリカに行って結婚した。心理学者になろうと決心したのも沼津であった。



ヨット仲間。左手前はラケットボールのライバル。柿田川公園のガストにて。


9月30日の日曜日、沼津の仲間と会うチャンスがあり、昔の想い出が走馬灯のようによみがえった。